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思想の違い。

 初めて三日かそこらでコメントが合計50以上もつくというのは、ブログ主冥利に尽きることだ。その主な原因は「コリアン・ザ・サード」さんのところで提供している百の質問でトラックバックしたからである。主にそちら経由でコメントを残していく方が多い。
 コメントは欠かさずチェックしているが、分類すると、大体が私の記事への批判で、立場が違うけど読んでみたという意見も少数ある。コメントを残される方が別の方に、感情的な書き込みは抑えるべきだと言っているところも散見される。
 私は心臓が毛むくじゃらな人間なので感情的な書き込みや罵詈雑言の類である書き込みは大して気にしない。多いか少ないかどちらが望ましいかと聞かれれば少ない方が望ましいが、実生活に危害を及ぼす書き込みでもない限り削除や拒否はしないので、コメントをしてみようと思われた方は特に文面に気を使う必要はない。だが対話を前提としていないコメントにまで返信をしようとは思わないので、その点は了承されることを望む。

 で、コメントをつらつらと眺めながら考えていたのだが、人間同士が何か一つ(あるいは複数)の意見の違いを持って、互いを全否定するような議論にまで発展してしまうのは悲しいと思った。
 初対面の人間同士の会話に政治の話を持ち込むな、というような格言を学校の授業で習ったことがある。また数年前に年配の方と話していたとき、その格言と同じ趣旨のことをいわれたこともある。
 私は政治が大好きであり、初対面だろうが十年来の知己だろうがそういった話で盛り上がるのは大歓迎なのだが、インターネットの議論を見ていて、なにがしかの立場や意見の違いから相手の人格攻撃にまで及ぶ議論を見ていると悲しい、というより虚しくなる。
 いったい人間というのはそこまで完全に意見が違うものだろうか。政治的な見解ならそういうことも多々あるだろうが、趣味や好きな本などの話にまで広がると、疑義を挟みたくなる。
 同じ言語を使い、同じような文化環境の間で育った人間同士、何か一つくらい共通点はあるだろう。
 例えば歴史観が違う相手同士でも、子どもの頃に熱中した本や物語に共通点を見いだすことは出来ないか。
 私のブログにコメントを残された方の中にも、一人くらいはアルセーヌ・ルパンの冒険に胸を躍らせた人がいるはずだ。シャーロック・ホームズの冷徹な推理から導き出される謎解きに驚嘆を覚えた人もいるだろう。あるいはアガサ・クリスティの小説を中学生時代に読みふけった人は。小柄な探偵エルキュール・ポアロが「灰色の脳細胞」を駆使して挑む難事件に、自分なりに頭を働かせながら挑戦したことはないだろうか。ミス・マープルがひっきりなしに編み棒を動かしながら、穏やかに殺人事件の犯人を告げる瞬間のそのページを、固唾を飲んでめくった人はいないか。
 小学生の頃、ジュール・ヴェルヌの「海底二万マイル」を読んだ人が、このブログの閲覧者の中に一人もいないなどという話を私は信じない。ちょっとヴェルヌを読んだ人なら、「地底旅行」をきっと覚えているはずだ。
 「若草物語」を読んだ人もいるだろう。「赤毛のアン」、「あしながおじさん」、「大草原の小さな家」が家の本棚の奥底にしまいこまれている家庭だって、きっとたくさんある。
 私は確信を持って言えるが、このブログを読んでいる人の多くは、小・中学生時代にかめはめ波の練習をこっそりした記憶があるはずだ。孫悟空と聞けば、「西遊記」よりも前に「ドラゴンボール」を思い出すだろう。
 「スター・ウォーズ」の名前を知らない人はきっといない。SFファンなら「マトリックス」を良かったという友人に、内心苦笑しながら「ブレードランナー」を教えはしないか。
 ミヒャエル・エンデを読んだ人もいる。「かぎばあさん」がない小学校の図書室はない。
 それほどたくさんの共通点を持ちながら、なぜ政治向きの議論が始まった途端、それらの話題は投げ捨てられてしまうのだろう。
 たかが本ごとき、たかが漫画ごとき、たかが映画ごときか。ならたかが政治ごとき、たかが歴史ごときといって何が悪い。
 歴史観ひとつ、政治観ひとつ違っていたから何だというのか。もちろんそれらは大事だ。だがその意見の対立が、個々人が持っているだろう他の分野の共通点まで否定して、交流の一切を断絶するというのなら、そのような類の議論はクソでもくらえと言い切ろう。
 歴史修正主義か自虐史観か、右翼か左翼か知らないが、本来思想的なものであるはずの対立が個人の人間性まで決めつけ、議論の応酬が攻撃性をむき出しにしていく様を私は嫌悪し、恐怖する。
 政治も歴史も人間に欠くべからざる大切なものだ。だが人間は政治と歴史と思想で出来ているわけではない。肉と骨と血があり、笑って怒って涙して、食ってクソして夜は寝る。
 抽象化された思考は、往々にしてそうした肉体的な次元を無視してしまう。確かに議論の次元がそこに縛られているようでは困る。レストランと本と映画の話題だけで、世の中は回らない。だがそのような肉体的次元を全て捨て去った議論の抽象化が、もっとも直接的肉体的な攻撃として相手に降りかかることがある。議論は本来、暴力を避けるための手段のはずだ。私は歴史観や愛国心と話しているつもりはない。人間と話している。
 その人間の顔を少しくらい胸のうちに引っかけておかなければ、人はどんな非人間的なことも出来る。ユダヤ人は人間として殺されたのはではない。「ユダヤ人」という抽象として殺された。関東大震災の時の朝鮮人や中国人(と朝鮮人や中国人に間違えられた日本人)もそうなら、原爆を落とされた時の日本人(と朝鮮人や中国人)もそうだ。逆に物事を冷静に考えず、肉体的反射で殺すこともあるだろう。相手のちょっとした言動にカッとして衝動的に殺す事件は腐るほどある。
 結局はいかにバランスを取るかという話だ。論点を最初に戻すと、私が感情的な発言を否定しないまでも好まないのは、それが議論を攻撃的にし、求められるバランスを欠いてしまうケースが多いからだ。インターネット上で交わされる議論は特にその傾向が強い。

 私は反対意見の人と議論するのが好きな方だが、そのとき議論の内容だけでなく、その相手がどんなものを好きか、どんな趣味を持っているかということにも出来れば注意を払いたい。

 愛が国境を越えるなら、アルセーヌ・ルパンは思想を超える。
by krj2005 | 2005-02-14 19:52 | 雑記
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