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卑怯者。

日本が戦後重ねてきた謝罪にいくたびとなく言及し、それをもって日本の歴史に対する解決としようとする人間がいる。

だが、その過去の謝罪を持ち出す人間本人が歴史に対して罪悪感を持ち、謝罪してきたことがどれだけあるというのか。

日本政府が代表として謝罪したことについては、日本国籍を持ち自他共に日本人として帰属している人間ならば、例えその人物本人がどのような歴史観や思想の持ち主だとしても自らがその一部を構成している国家として謝罪したのだと言えるだろう。

その意味で私が最初に書いたことは正しくない。

だが、近年の歴史問題に対して日本の過去の謝罪に言及し、それをもって歴史の解決と使用とする人間は、日本にその謝罪をうながした内的な力となったことがあるのか。

私にはそうと思えない。むしろその「内的な力となった」人々を反日勢力というレッテルで排除する人々が多数ではないかという確信を禁じ得ない。

例え国籍やその他諸々の資格から、日本の謝罪を自分自身の謝罪であるかのように言うことが出来るとしても、いや何よりもそれゆえに、お前は卑怯者だ。

自分自身で日本の歴史問題の解決にほとんど動いたこともないくせに。

自国のなしたことに良心の呵責を感じ、その問題の解決のために動いた人々がなした成果を、さも自分自身のものであるかのように横からかっさらう卑怯者め。

村山談話を引用して中韓の批判に反撃しながら、その村山談話をもたらした国内の日本人自身による努力を反日勢力と切って捨てる卑怯者め。

私は、このような詭弁を弄する人物があげる、日本の歴史問題に対する「真摯な態度」など絶対に認めない。

私が韓国の歴史批判に対して、日本の謝罪や日本国内の歴史的反省に対する理解が少々(けっこうかも?)足りないのではないかという居心地の悪さを感じるのは、そのような人物が「過去の謝罪」をあげつらうからではない。

私の知る多くの人が、歴史の悲劇と日本の過ちに対して罪悪感と謝罪を表明するからだ。

私が自分の歴史問題で日本に対して怒りを抱くとき、それを抑える力となっているのは、多くの日本人が日本の過去の罪悪を罪悪と認めていることを体験として知っているからだ。

卑怯者め。卑怯者め。卑怯者め。

お前が何万回日本の過去の謝罪に言及し、それがどれだけの真摯な心からのものだったかを嬉々として分析して見せたところで、私の歴史に対する怒りに反省をうながさない。火に油をかけるだけだ。

そしてこの批判は、そのまま私自身にも当てはまるのだろう。
# by krj2005 | 2005-08-03 18:30 | 国際情勢

もう少し詰めて考えてみたいこと、その壱。

「finalventの日記」さんで見かけた言葉に少し考えた。

>声高な声だけを掬わず、声なき人に訊いてみたことはあるだろうか。

その声なき声を掬った瞬間に、声高な声がこぼれおちるのだと、最近よく考える。
別に「finalventの日記」さんに限らず、どうも最近の社会には「声なき声」を掬いまくり、それでもって声高な声を相殺しようとする傾向がある。

自分のこの考えは、まったく何の根拠もない、感覚に等しいものだけども、最近あちこちの考えを見ていて、漠然とそう感じる。

マスコミなどの表層的な社会で「声高な声」ばかりを取り上げ、その他の声を圧殺してきた過去の時代には確かに問題があった。それは当時の時流に抑圧されてきた人たちばかりではなく、長期的には時流のメインストリームをなし、その他の意見を圧殺していた人たち自身にも大きなしっぺ返しをくらわせた。

だが、世の中がどれだけ今までとは違った価値観に染まってきた(例えば「右傾化」など)とは言っても、それはまだメインストリームの位置を占めていない(なる必要があるとも思わない。ただ、多様な意見が出てくるのはいいことだ。)。

何のかの言っても、世の中にはまだ「声なき声」を時に押しのけてきた昔ながらの少々左がかった「声高な声」が公には(あくまで公には)受け入れられている状況だ。

そのような状況の中で、声なき声を掬おうとする試みには確かに意味がある。

けれども、その試みのさらに裏に、「声なき声」を掬うことで「声高な声」を遠ざけようとする意識がかいま見えるのだ。

声高な声と全く同様に、声なき声は大事である。両者は意思の表現として全く等価値であり、ゆえに声なき声が声高な声に優先されることもない。掬うならば両方を救わなくてはならない。

まあ、掬うまでもなく勝手に響いてくるのが声高な声とも言えるのだけど。
# by krj2005 | 2005-08-03 11:45 | 雑記

理想的なディフェンス

「テロには屈しない」、「テロリストは決して勝利しない」、「テロとの戦いを継続する」

威勢のいい言葉が世界を牽引するリーダー達(?)の口から吐き出され、テロに対抗するための法律が整備され、警戒度が上がり、テロの温床を軍隊が鎮圧し、自由と民主主義陣営は考え得るかぎり最高の防御態勢を強いている。

アフガニスタンへの徹底的な攻勢といいイラクへの圧倒的な軍事力行使といい、自由と民主主義を守るための戦いは見せ場が多い。

バスケの試合に例えて言えば、敵プレーヤーのシュートを叩き落とすド派手なブロックショットのようだ。

力強く、激しく、ギリギリで相手の攻撃をブロックするその爽快感。

話は変わるが、「Dear Boys」というバスケット漫画がある。
それなりに人気はあるのだが(あの名作スラムダンクと同時期から連載していて、現在も連載継続中)、雑誌媒体が月刊少年漫画ということもあり、メジャー一歩手前のマイナーという感がある。だけどけっこう面白い。

その漫画が載っている雑誌の最新号で、作中のバスケ雑誌の記者がこんなことを言っていた。

「ブロックショットは盛り上がるが、いいディフェンスとは言えない。理想的なディフェンスとは相手がシュートにはいるところまで持って行かせないこと、ディフェンスしているということすら分かりにくい段階できっちり攻撃をつぶすことだ。ブロックショットが目立つチームは、ディフェンスが穴だらけということを証明しているにすぎない」

非常に説得的だ。

9.11テロに対して断固たる姿勢を取り、テロの温床を叩きつぶしたディフェンスは、見かけの派手さほど素晴らしいわけではない。

最も理想的なテロとの戦いは、テロを起こさせず、テロの芽を事前につみ取り、テロが起ころうとしたことすら分からせず、そもそもテロが起こるような環境すら作らず、最終的にはテロとの戦いという概念すら無くすことを言う。

9.11テロやロンドン地下鉄同時爆破テロなどという攻撃をさせた時点で世界のリーダーは負けているのであり、それを防ぐことが出来なかった時点で世界のリーダーは失敗しているのであり、それに対して断固とした戦いを続けるなどと言う時点で世界のリーダーは追いつめられているのだ。

ブロックショットは自由と民主主義を守るための抜本的なディフェンスではない。理想的なディフェンスはディフェンスすら必要としない。

テロリストは勝利しないかもしれないが、世界のリーダーの勝利もまだ当分先の話だ。
# by krj2005 | 2005-07-09 22:01 | 国際情勢

漠然と。





世の中の誰にもどこの国にも様々な事情があるのだろう。


ただ至極残念なことに、「事情がある」の一言ですまされない事情があまりにも多すぎる。
# by krj2005 | 2005-05-27 16:54 | 雑記

ふと思う。








一人旅とは、一時的な死の経験だ。
# by krj2005 | 2005-05-21 20:59 | 雑記